Kyoto Gakuen University &
Kyoto University of
Advanced Science Almuni Association.

北へ南へ、西へ東へ。日々ひた走る記者WAY

同窓生の方に近況をお伺いしてご紹介いたします同窓生インタビュー『同窓生に聴く』。今回は亀岡の風雲児(?)こと、2004年3月に人間文化学部文化コミュニケーション学科(現・メディア文化学科)を卒業された竹内博士さんです。

一番楽しいのは「人との出会い」です

竹内博士さん
お勤めの新聞社編集室にて。取材時期が昨年秋初頭でしたので半袖です(^^;;)
――西暦何年の卒業で何学部の出身ですか?
2004年3月、人間文化学部卒業です。
――現在、どんな仕事をしていますか?
新聞記者をしています……亀岡で(笑)。
ここで「東京の大手新聞社で」とか言ったらカッコイイのかもしれませんが、亀岡なんです。まわりからは「まだ亀岡におんのか!!」と言われますが、いるんですねこれが(笑)。
亀岡のローカル紙『亀岡市民新聞社』の記者をしています。仕事内容は、亀岡の事、人、物など、亀岡の隅から隅までを取材して、記事を書くことが主な仕事です。が、それだけではありません。紙面のレイアウトから新聞の拡張、営業活動から配達漏れの対応まで幅広いです。
取材はいつもマイカー。愛車の「青い車」を飛ばし、朝から晩まで亀岡の町を北へ南へ西へ東へ……。
竹内博士さん
取材中の一枚。地域に密着した取材は地元紙ならでは。
――今の仕事、どこが一番楽しいですか?
一番楽しいのは「人との出会い」です。いろんな分野の多方面の方々とお目にかかれるのは記者の特権ですね。いろんな人がいて、色んな考えや価値観があって、いろんな人生が日々存在しているんだなぁと勉強になります。記者という肩書きを持ってなかったら、そう簡単にはいろんな方と会って、いろんな事をズケズケとは聞けませんから、記者だからこそ許されることですね。
取材分野も近所のラーメン屋から神社の祭事、畑仕事中のおばあちゃんから市長への取材までと幅広いです。
一番思い出に残っている取材は、夏の花火大会を前に火薬工場まで取材に行った時のこと。亀岡のお隣の南丹市八木町ってところにあるんですけど、近畿で打ち上げられる花火はすべてそこで作られていて、亀岡花火大会の花火はもちろん、琵琶湖、PL、そして龍尾祭用と全ての花火を目の前で見せてもらいました。当日は僕の後輩ということもあり学園大放送局も同行しました。テレビ取材と新聞取材という大掛りなことに。当時、放送局に所属していた赤木資康くん、谷口舞さんそして僕の三人で山奥の工場を目指す最中、車が坂道を上がらなくなって、二人に押してもらいながらやっとこさ到着という波乱万丈の取材でした。
自分の母校の様子をタイムリーで見られるのも楽しさのひとつかな? みなさん知ってますか? キャンパスがかなりキレイになっているんですよ!!
竹内博士さんと愛車
亀岡の田園風景をバックに、愛車と。
――大学生の時はどんな人間だったか自己分析してください
「よく食べ、よく動き、よくしゃべる」「勢い」「がむしゃら」「怖いもん知らず」「疲れ知らず」ですね!
――大学生の時とは自分は変わりましたか?
確実にオッサン化しました。あと太りました……。不摂生一直線ですから。
学生の時は、好き勝手やっていたこともあり、かなり活き活きしていました。人には言えないいろんなこともしましたしね。社会人になると「さすがにできないな」と思うことが多々あるのでね(笑)。控えめですよ最近は。だから老化というか、少しは落ち着いたといった感じでしょうか。でもそれでいいと思っていますよ! 人は「自分らしさ」を失わなければ老けようが何だろうがいいと思います! 男に必要なのはロマンを持って生きることですから……。

「疲れたら帰っておいで」と、まるで母のような心境になってしまいます

竹内博士さんとみなさん
放送局のみんなと撮った現役生時代のお写真。
――大学生時代一番力を入れたことはなんですか?
部活ですね。バイトをする間もなく、帰省する間もなく、部活一本の日々でしたよ。「竹内さんは大学に住んでいる」とまで言われましたから(笑)。所属していたのは京都学園大学放送局(gbs)です。もともと、「伝達」「情報」みたいなものには興味があったし、いわゆるテレビやラジオ、新聞などのメディアは学びたかったことのひとつでした。しかし、入学式当日、ショックを受けました。
「大学には放送関係の部活がない」ということを知ったんです。しかし「無いなら創ればいいじゃん」とひらき直り、友だちに声をかけて集った小林奨治くん、上田智博くん、稲葉梨恵さん、鍵谷由貴さんらとサークルとしてスタートさせたのがはじまりでした。
その後、現在亀岡観光協会に勤務している相見達也くん、現在岡山放送の報道カメラマンをしている十川正訓くんらが入り、いっきにレベルアップしていき、異例のスピード昇格し同好会からクラブへと発展しました。自分が創ったクラブということもあり、とにかく命かけてましたね(笑)。
学内放送をはじめ、各種イベントの中継録画、kbs京都放送用のcm制作、司会、早稲田大学や高知大学、大阪芸術大学での学会発表と、毎日何かありました(笑)。
――今後の人生プランを教えてください
20歳の時に「死ぬまでのシナリオ」を作っていまして、その通りに自分というコマを社会の上で実現化しているんですが、これがなかなか楽しいですコレが(笑)。若干の計算ミスはありますが、おおむね計画通りに順調ですかね。
今後は、簡単に紹介しますと28歳頃に結婚、34で独立、55歳で転職、88歳で死ぬ予定です(笑)。
竹内博士さん
――お仕事のprをどうぞ
亀岡市民新聞。小さな町の小さな新聞社ですが、スタッフ一同、日々頑張っております!! 購読は月々630円! 地方発送もありますよ。母校の情報もありますので、亀岡や母校を懐かしんでいる方はぜひ購入してくださいね。
――その他、おもしろエピソードなどを教えてください
大学時代、いろんな噂を発進して、何日後に自分のところに帰ってくるかという実験をしていました。「亀岡で大地震が起こる、震源地はsaty」は当時、キャンパスでけっこう流行した噂で、二週間で帰ってきました(笑)。やがて某講義の中で、「伝達」という分野で取上げられてしまったこと! 大学って、何気ないことがそのまま学問になる場所だと改めて実感しました。
――最後に、卒業した友人たちにひとこと
みんな! お元気でしょうか―― お久しぶりです。まだ亀岡で頑張っています!!(笑)。こまめに連絡とってる奴も、連休のたびに亀岡まで遊びに来てくれる奴も、卒業以来、疎遠な奴も、これをきっかけに学大時代を思い出してもらえたらうれしいです。
大学時代からずっと亀岡にいると「疲れたら帰っておいで」と、まるで母のような心境になってしまいますが、大学時代を語る上で欠かせない土地だなと改めていつも感じています。また亀岡で会いましょう。

2006年09月
インタビュー/写真:鈴木 創介
(2004年人間文化学部卒業)

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